ですから哲学を持たなければ、
揺れ動く世間に踊らされて生きていくしかない。
今、あなたはどういうモノサシで
その不確実な時代を生きていこうと、
真剣に考えたことがありますか。
「超訳 ニーチェの言葉」の著者、白鳥春彦氏が
自分の価値観と言っても、
たいてい、どこからかの借り物にほかならない
と述べている。
そして、誰に対してもまっすぐ自分の意見を
述べることができなければ価値観など育ちません
と断言する。
たとえば、ニーチェを読むにしても
すべてを理解する必要はない。
かるーい気持ちで読んでもらい、
閉塞感を感じている若い人たちの生きる力に
少しでも役に立てればとエールを送っています。
現実の世界を現在時制の内容で表現すると、非現実の世界は未来時制の内容として表現できる。
現実の世界と非現実の世界は、英語では一対一の対応がある。
そして、現在時制の内容に対応した未来時制の内容が過不足なく考えられる。
真実は現実の中にある。が、真理は考え (非現実) の中にある。
現実は真実である。現実の内容として述べられる非現実は嘘である。
時制がなく、現実と非現実の区別がつかなければ、本人は嘘ついてるという自覚はない。
話の内容が現実離れしていることに違和感がない。
現実の内容は五感の働きにより得られるが、非現実の内容は瞑想により得られる。
現実の世界が過不足なく成り立つように、考えの世界も過不足なく成り立っている。
もしも、考え (非現実) の世界に矛盾があれば、それを見つけて訂正しなければならない。
自他が協力して構想の中の矛盾を丹念に淘汰すれば、非現実の世界は現実の世界と同じ広がりと正確さをもち、場当たり的な発言の内容とはならない。
日本語脳は、非現実の内容を脳裏にとどめ置くことができない。
それは、日本語には時制がないからである。
日本人は常に実を求めている。現実にとどまることのみを信じている。
日本人の考えは、現実の外に出るものではない。
現実を現実の外にある理想に導くものではない。
西遊記に出てくる孫悟空は、自己の有能さに得意になっていた。だが、釈迦如来の手のひらの中から外に出ることはできなかった。孫悟空には、世界観がないからである。
英語の時制を使うことができない英米人は、子供のようなものである。
だから、非現実の世界を考えることができない日本人は、12歳の子供のように見える。
考えがなければ、議論ができない。
日本では「議論をすれば、喧嘩になります」と言われている。
意思は未来時制の内容である。
時制が無ければ、恣意となり、その思いは公言にもならず宣言にもならない。
物事の決着は、談合により行われる。
そこには、公言も宣言も必要でない。
意見を述べようとすると「理屈を言うな。理屈なら子供でも分かる」と言って相手にしない。
もっぱら恣意と恣意のすり合わせを行って決着する。いわゆる、どんぶり勘定である。
和をもって貴しとなすためには、金を配るしかない。これも馬鹿の一つ覚えか。
現ナマは、現実の内容であり、日本人には信用の証となる。
究極の人生目的は、狭義の自己利益・金を得ることにある。
国内では、学閥など序列を作って自己利益を確保しようとする。それで、忠義が尊ばれている。
人間が縦一列に並んで他を入れない密な人間関係である。
序列作法の励行により、序列の外に出られない島国根性が植えつけられる。だから、玉砕を覚悟する。
国内においても、国際社会においても、日本人は金を配って存在感を示そうとする。
これもひとえに社会の中での序列順位向上のためである。
だが、日本人は内容のない発言により信用を失うことが多い。
それでも、日本人は人類のために貢献している。
だが、その貢献の仕方は、発言のない家畜が人類に貢献するのと似たところがある。
http://www11.ocn.ne.jp/~noga1213/
http://page.cafe.ocn.ne.jp/profile/terasima/diary/200812