言わざるを得ない。
不況に追い打ちをかけるように、未曾有の東日本大震災や
福島原発事故による放射能汚染が起きてしまった。
政治は停滞し、円高、デフレ、財政赤字、失業率の悪化など
日本を取り巻く環境はことのほか厳しくなってきた。
そうした厳しい環境において、我々は何も考えずには
生きられない時代になってきたのではないでしょうか。
そんな時代において、求められるのは哲学だとも
言われているのだ。
哲学というと、何か小難しい言葉で表現しなければと
捉えがちである。
哲学は、平たくいえば物事を深く考えることである。
自分で信念を持って物事に取り組んでいる人は、
基本的に哲学をしているのと同じであると、
東浩紀氏が述べている。
あなたは信念を持って物事に取り組んでいますか。
それぞれの言語には、固有の特色がある。
日本語には、時制がない。それで、未来時制もない。
日本人には未来のことが鮮明には考えられない。構文がないので常に未来の内容は混乱している。
結論も決断も下すことができない。
決断を慎重にするためではなくて、不鮮明で結論が得られないためである。
自分から考えることもできず、他人から伝えられることもない。
未来の内容そのものが、社会に存在しない為である。
未来の内容が脳裏に展開できないので、不安になる。
政治家も一般国民も理想社会の予測が立たない。
政治指導者の指導もない。
金の切れ目が、縁の切れ目としか信じられない。
人は信じられない。金を信じるしかない。
1500兆円の個人金融資産も社会資産となることなく宝の持ち腐れになっている。
金はあっても保育所には入れてもらえないようなものである。
英語の時制は、現実と非現実の内容を分けて考える作業に役立っている。
この作業は、英米の高等教育の課程で行なわれている。
現在時制の内容は現実であり、未来時制の内容は非現実である。
非現実の内容がなければ、人は無哲学・能天気になる。
神の意思に導かれることもなく、政治指導者の構想に導かれることもない。
大人になっても12歳の子供の精神状態にとどまる。
目先・手先にまつわる事柄ばかりを考えて生活することになる。
襲い来る放射性物質に関して、「ただちに健康に影響はない」とだけ説明するのは、ナウな感じのする至言てある。
構想がなければ、備えあれば憂いなしとはゆかない。危機管理は、難しい。
一旦、問題が起これば、無為無策で閉塞感を味わう。
そのうち、何とかなるだろう。と見守る。
何とかならないことを見届けると、諦観に入る。
自決では、生きる力は得られない。
ああ、この世はむなしい。と漏らす。
こうした繰り返しが日本人の一生である。
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